ネオコンの政策と代表者

ネオコン その3

ネオコンの軍事・外交政策

ネオコンは、自由主義を世界に広めることと民主化を理想としていて、軍事政策や外交政策は新現実主義路線を採っています。また、自由化と民主化は人類普遍の価値観であると考えていて、その啓蒙と拡大に努めています。

また、ネオコンは核戦略においては、元トロツキストでランド研究所の重鎮アルバート・ウォルステッターの予防的戦争や限定核戦争などの議論に強い影響を受けています。

「緊急事(同時多発テロなど)にはアメリカの国防に何ら寄与しない」として、国際連合に極めて批判的になっています。それは、ジョン・ボルトン(前アメリカ国連大使)の発言に端的に現れています。国際連合の枠外による国活動を主張しますが、それは単独行動主義的になっているとして、国際連合加盟諸国から批判されることも多くあります。「有志連合」などは、国際連合の影響力の及ばない多国籍からなる一時的な国際組織として注目されましたが、アメリカ合衆国はこの有志連合を恒久的に維持する姿勢を現時点では見せていません。

そしてネオコンは、中央情報局(CIA)にも批判的であることが多く見られます。そのために、軍産複合体と利害が近いので、CIAを犠牲にして国防総省の発言力を高めることにとても積極的です。ネオコンがCIAを嫌う理由には、CIAの職員に民主党員が多いためなどだから・・といった説などもありますが、最も考えられるのはCIAの過去にあるといわれています。(反共を理由に、腐敗する独裁政権や軍事政権に対し援助を続けた事に反感を持っているとされています)

といってもこれもブッシュ政権での傾向なので、カークパトリックといったかつてのネオコンはその援助に積極的でした。ポスト冷戦でもあるジョージ・H・W・ブッシュ政権の時代から中東の民主化構想が考えられて、ジョージ・ウォーカー・ブッシュ政権のイラク戦争はそれに基いているとされています。オレンジ革命などの俗に「色の革命」と呼ばれる民主化ドミノもネオコンの援助があったと言われていて、中央アジアといった旧ソ連や共産圏から同盟国のサウジアラビア、バチカンまでも民主化の対象にされています。

ネオコンとされている代表者

  • アーヴィング・クリストル ・・・ ネオコンの創始者と考えられている
  • ダニエル・ベル ・・・ 社会学者、「イデオロギーの終焉」論
  • シーモア・リプセット ・・・ 政治学者
  • リチャード・ホフスタッター ・・・ 政治史家
  • デーヴィド・フラム ・・・ カナダ出身の記者で、「悪の枢軸」という単語を考案しました
  • フランシス・フクヤマ ・・・ 政治学者で『歴史の終わり』の筆者。大統領の生物倫理委員会の会員、後にイラク戦争の誤りを認めて転向しました
  • リチャード・チェイニー ・・・ 米国副大統領、元国防長官、前ハリバートン会長。 伝統的保守派からネオコンに転向しました。
  • ナタン・シャランスキー ・・・ ジョージ・W・ブッシュの拡大中東構想に影響を与えました。
  • ポール・ウォルフォウィッツ ・・・ 世界銀行総裁、元国防副長官
  • ジョン・ボルトン ・・・ 国務次官補、元国際連合大使。国務省最右派・強硬派。
  • ロバート・ケーガン ・・・ 政治評論家
  • ドナルド・ケーガン ・・・- 歴史学者
  • リチャード・パール ・・・ 国家防衛政策委員長
  • ノーマン・ポドレツ ・・・ 政治学者
  • エリオット・アダムス
  • リンダ・チャヴェズ
  • リン・チェイニー ・・・ チェイニー元副大統領夫人、反ネオコン学者の評論家
  • ジョン・コーニン ・・・ 共和党上院議員、元テキサス州司法長官
  • ダグラス・ファイス ・・・ 前国防次官
  • クリストファー・ヒチェンズ ・・・ イギリス出身の解説者
  • マイケル・レディーン
  • ルイス・リビ
  • フィリップ・メリル ・・・ 輸出入銀行会長
  • ロナルド・ロトゥンダ ・・・ ジョージ・メーソン大学法学教授
  • マイケル・ノヴァック ・・・ 研究者
  • ピーター・バーガー ・・・ 研究者

チェイニー副大統領 その1

ジョージ・W・ブッシュ大統領の時に副大統領だった、ディック・チェイニー副大統領。その首席補佐官ルイス・リビーが起訴されました。そして奥さんもネオコンとして有名な人です。ではディック・チェイニー副大統領はどのような人なのでしょう?!

政治家になる前

1941年(昭和16年)1月30日。アメリカネブラスカ州のリンカーンに生れました。父母は農務省に勤務していて、とても熱烈なニューディーラー(社会民主主義的な思想を持つ)でした。

ワイオミング州のキャスパーで育ちました。イェール大学に数学期在籍しましたが中退して、その後はワイオミング大学に編入学しています。

ワイオミング大学政治学専攻卒業して、学士号を取得。1966年(昭和41年)、ワイオミング大学大学院政治学専攻修士課程修了。政治学修士号取得しています。更に、ウィスコンシン大学大学院博士課程に移って、同大学大学院博士課程政治学専攻時代に、その当時のウィスコンシン州知事、ウォーレン・ノールスのスタッフをつとめます。これが、チェイニーが政界との接点を持つきっかけとなりました。

首席補佐官

リチャード・ニクソン政権では、大統領次席法律顧問を務めて、ニクソンがウォーターゲート事件によって辞任した後に、ジェラルド・フォード政権でチェイニーは史上最年少の34歳という若さでアメリカ合衆国大統領首席補佐官となりました。

下院議員

フォード政権が野に下った後は、地元・ワイオミング州から下院選への出馬を決意します。1978年(昭和53年)の選挙では、当選が難しいとされながらも当選を果たして、1989年(平成元年)までの6期を下院議員としてつとめています。1981年(昭和56年)には議員当選が2回でしたが、首席補佐官時代の調整と政策立案能力を買われて№4の下院・政策委員長に就任しました。

イラン・コントラ事件の事態収拾に尽力しています。人種隔離政策を推進していた南アフリカのピーター・ウィレム・ボータ政権には融和的で、1986年(昭和61年)の南アフリカに対する制裁法案には反対票を投じています。1989年(平成元年)には共和党下院院内幹事をつとめていたトレント・ロットの上院鞍替えに伴って院内幹事に就任しました。将来の院内総務と、共和党の過半数奪回後の下院議長は確実と見られていました。