プレイム事件結果とネオコン

起訴

連邦大陪審は2005年10月28日に、ディック・チェイニー副大統領のルイス・リビー首席補佐官を偽証、嘘誓がそれぞれ2件、司法妨害が1件の合計5つの訴因で起訴しました。起訴容疑からは「情報漏洩」は除かれています。(リビーの嘘のために、チェイニーの疑惑が明らかにならなかったの意味)起訴を受けてリビーは副大統領補佐官の職を辞することになりました。そして、ブッシュ大統領のカール・ローヴ次席補佐官については起訴は見送られることになりました。このため、ひとまずブッシュ大統領にとっては大統領主導の情報操作疑惑という最悪のシナリオは避けることができました。本来ならば、カール・ローヴ次席補佐官はリビーと一緒に起訴される予定だったのですが、ローヴ補佐官が2003年にホワイトハウスの同僚と交わしたEメールには、意図的にFBI捜査員をミスリードする意志はなかったとするローヴの主張を裏付けるようにも読み取れたということがその理由です。ローヴはその後も騒がれた後に、リチャード・アーミテージ元国務副長官から聞いたという事になりました。

リビーは、CIAエージェントの身元がヴァレリー・プレイムであることを「ジャーナリストたちから聞いた」と繰り返し主張していましたが、起訴状ではプレイムについては2003年6月にディック・チェイニーから聞いたという、まったく違った事実が記載されています。

裁判

2006年4月、ディック・チェイニー副大統領の首席補佐官ルイス・リビーは大陪審では、ブッシュ大統領が事件に直接関与していたと証言しました。2006年8月、ノバクに対する情報漏洩はアーミテージが行ったということになりました。彼は2006年9月7日のCBSで自らが情報源であることを認めて、自分に非があるということを認めました。しかし、フィッツジェラルド特別検察官はこの件は起訴しませんでした。アーミテージはイラク戦争に批判的であったのでその関与は、ホワイトハウスの陰謀の一部として発表されたというブッシュ政権評論家の主張には適合しませんでした。アーミテージ元国務副長官は自分が述べたときには既に政府内では誰でも知っている事であって、故意ではなかったと主張しました。

2007年1月16日に裁判は開始されたましたが、捜査段階で取材源の秘匿を打ち出して抵抗したメディアでしたが、裁判では一転して積極的に証言に応じました。裁判では、チェイニー副大統領の積極的指示、ローヴ補佐官、アーミテージ元国務副長官の関与も明らかにされましたが、全て不問となりました。裁判で弁護側は、リビーは「いけにえ」にされたと主張ししました。実際、陪審員は全員起訴されていない他のメンバーも疑っていたといいます。

2007年3月6日、ワシントン連邦地裁の陪審はルイス・リビーに対し起訴された5つの罪状のうち連邦捜査局に対する偽証以外の4つについて有罪とする評決を出しました。評決後フィッツジェラルド特別検察官の述べたチェイニーの疑惑についての「暗雲(cloud)」という表現は一瞬のうちに流行語となりました。この事件で渦中に巻き込まれたヴァレリー・ウィルソンは2007年3月16日に、米下院政府改革委員会の公聴会に出席します。CIAの秘密工作員経験者が米議会で証言するのは極めて異例の事ではありますが、ブッシュ政権を批判する民主党がこの事件を追及した事によってこの証言が実現することになりました。CIAでの活動歴については、自分は身分を偽装して世界各地で大量破壊兵器の情報収集にあたる事が任務であった事を語っています。

判事による量刑言い渡しは6月5日に行われて、リビー被告は禁固2年6ヶ月の実刑判決を受けることになりました。ワシントンの保守派団体などの間からブッシュ大統領による恩赦を求める声が多くあがりました。ブッシュ大統領は刑の免除は拒否はしましたが、7月2日に大統領権限で執行猶予に減刑することになり、世論の反発を招いています。

ネオコン その1

プレイム事件には、ネオコンが大きくかかわっています。そのネオコンはアメリカ合衆国での新保守主義。Neoconservatism(ネオコンサバティズム)を略したもので、ネオコンと呼ばれています。保守派の政治イデオロギーの1つになっていて、アメリカでは19701年代から独自の発展をしていて共和党政権時の外交政策姿勢などに、とても大きな影響を与えてきました。

近年ではマスコミなどのメディアやアメリカ民主党などからは蔑称として使われています。伝統主義などを提唱している旧来の保守派は、PaleoConservatismペイリオコンと呼ばれていて、ネオコンとはしばしば対立してきました。

ネオコンの起源

アメリカ合衆国の新保守主義の源流は、1930年代(昭和初期)に反スターリン主義左翼として活動したトロツキストたちからです。そのトロツキストたちは後に「ニューヨーク知識人」と呼ばれるグループです。ニューヨーク知識人の多くは、アメリカの公立大学の中で最も歴史のある大学の1つニューヨーク市立大学シティカレッジ (CCNY) に学んでいます。ニューヨーク市立大学シティカレッジ(CCNY)は、高度に選択的な承認基準と自由教育によって、20世紀初頭から中期にかけて「プロレタリアのハーヴァード」と称されていました。それはその当時、ハーヴァード大学をはじめとするアイビー・リーグの私立学校が、大多数のユダヤ系アメリカ人や有色人種たちに関して排他的な入試制度を持っていたからです。

当代のニューヨーク知識人には、社会学者ダニエル・ベル、政治学者シーモア・リプセット、リチャード・ホフスタッター、マイケル・ハリントン(シカゴ大学出身。左翼から保守に移行した知識人を批判的に「新保守主義」を名付けたのは、彼といわれている)、政治学者マーティン・ダイアモンド、文芸批評のアーヴィング・ハウなどがいました。こうした人達の中に、のちにアメリカ新保守主義の創設者と考慮される文芸批評家のアーヴィング・クリストルとその妻歴史家のガートルード・ヒンメルファーブ、ネーサン・グレイザー、シドニー・フックなどがいました。したがってニューヨーク知識人の中で新保守主義へと転向したのは、一部に過ぎません。

また、重要な人物としてマックス・シャハトマンが挙げられます。ポーランド移民でもある彼は、トロツキズムの党派社会主義労働者党―第四インターナショナルから、独ソ不可侵条約締結とソ連邦によるバルト3国侵攻を期に、ソ連邦の国家性格やその「帝国主義からの防衛」の是非をめぐってトロツキーたち論争して、社会主義労働者党から分裂してアメリカ労働者党を結成します。ハリントンやハウは、彼に魅了されて左翼になりました。(後に転向)

第二次世界大戦後は、シャハトマンのグループは民主党に入り込みます。そして民主党内の最左派として UAW(全米自動車労組)などを基盤に活動していきます。人数的には少数派でしたがAFL-CIO(アメリカ労働総同盟・産業別組合会議)の会長や、政府高官などにメンバーを送り込んでいました。1970年代(昭和中期)に入るとさらに保守化していき、シャハトマンの死後このグループは分解の方向へと向かいました。このシャハトマン・グループ傘下の青年社会主義同盟に入っていたのがカークパトリックなどです。シャハトマンの新保守主義への貢献は、戦前にはトロツキスト・グループを形成して青年ユダヤ人に知的公共空間を提供したこと、戦後はユダヤ人たちが米国の現実政治のなかで影響力を与えていく回路をつくりあげたことといえるでしょう。

左翼からネオコンに至ったことで、両者に通底する何らかの部分があったとするマイケル・リンドは、新保守主義の「民主主義の輸出」というコンセプトは彼らが青年期に信奉したトロツキズムの「革命の輸出」の焼き直しとしていますが、これは全米民主主義基金が創設された当時左翼からの転向者が幹部に居たことから指摘されていたものです。